Mの話は長いが軽い 第三回 ついに・・総合診療・家庭医療の専門性のこと その①プロローグ

エッセイ

 前回、声高らかに原理や専門性の話をすることを宣言したのだった。第二回から少し間が空いたのは、実はさすがに記憶だけで話すことに若干の躊躇を覚えたものだから、McWhinney先生の”textbook of family medicine”の第二版の本を買い直しました。第三版も出ているのだけれど、先生が亡くなられて後の出版だったため、彼の息遣いを感じる第二版にしたのであったが、あらためて彼の偉大さがよ〜くわかる。こんな私の文章なんて、まるでゴミだ。穏やかで知的でありながら、溢れるばかりの情熱とそこに至るまでの苦悩が伝わります。ぜひ、みなさん読んで下さい。というか、読め。以上、終わり。で良いのだけれど、声高らかに宣言したものだから、低めの声で音量を下げながら呟くことにします。

 そもそも、なぜこんなに専門性にこだわるのかという所から話そう。総合診療あるいは家庭医療に興味がある人、実際に専攻している人に共通の経験。そう、“あんな専門性のないものを選ぶ理由がない。誰でもやればできる、つまらない。医者もどきになりたいの?君の将来が心配だ。”などなど、地域医療の世界に生まれ落ちた我が身(自治医大卒だからね)は、反論もできず、なんだかサンドバックになった気分だった。しかもそのように言ってくれる先生たちに悪意はないので、ますます追い詰められてしまう。いっそ普通の医師の道を、いわゆる王道のキャリアを選ぼうかとも思いましたよ、それは。では、なぜ、ここにいるのか?総合診療、家庭医療に覚醒したのだと言えればカッコ良いのだけれど、実は違います。ただ単にいじっぱりだったからだと思います。津軽の“じょっぱり”ってあるでしょ。あれです。自分でもよくわからないまま、地域で一所懸命やっている先輩や同級生の顔が浮かんで、ついでにちょっとだけ後輩の顔も浮かんで、そうだ子供の顔も浮かんだな、つい顔を真っ赤にして言ってしまう訳です。“地域医療は素晴らしい。医師としての生涯を賭けるに値するのだ”、と。そして、専門性という言葉の障壁を正当に乗り越えるための思索が始まった・・というより、屁理屈でもなんでも自分が納得できる考え方、視点が欲しかったのでした。

 どうです?まるで怨念のような話じゃないですか。ルサンチマンと言えばなんとなくイカした感じになるけれど、実際はなんだかドロドロしていて我ながら嫌になる。だからこそ、というべきか、今の若い人たちが、どんな専門でも選べるにも関わらず、数多の妨害があるにも関わらず、総合診療の道を目指すというのは、これは純粋に素晴らしい。もっとも、他の科が選べなかったという消去法での選択もあるとは思うのだけれども、少なくとも、こんなnegativeな感情から始まっていない点で、私より随分とましだ。K前教授は自分と同学年であったが、学生時代からプライマリ・ケアの論文を書いていて、その普及と教育の必要性を論考していました。ああ、すごい、なんという違い。  では、そろそろ、屁理屈でもなんでも自分が納得できる考え方とやらを(日本語が変。わかる人にはわかるかな)、みてもらおうじゃないか。大前提として、地域医療/プライマリ・ケアはシステムのことであって、それ自体を専門であるとは言えないことを確認しつつ、専門という言葉そのものの意味をお話しする時間が、もうなくなったので、次回へ。

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